97式小作業器(い号)

全長:        ?.??m
車体長:       2.50m
全幅:        1.00m
全高:        0.60m
重量:         0.4t
装甲:        ---mm
乗員数:        なし
武装:300kg爆弾搭載
動力:600V直流モーター
走行性能:最大速度:4km/h
     操縦可能範囲:1km
総生産台数:約300両
 どこの軍隊にも工兵という兵科はある。「華は爆破」と言われるが、実際には作る(簡易の橋をつくったり陣地構築をしたり)事が多かったという。しかし、最前線での仕事に地雷除去や鉄条網破壊があった。鉄条網は思いのほか防御力が高い。戦車なら簡単に通れそうだけども、キャタピラに絡まる事があった。除去なんて悠長な事は最前線ではできず、結局は爆破するのが一番手っ取り早かった。昭和7年の上海事変では予定時刻までに鉄条網爆破ができず、3人の工兵が爆破筒を体に括り付け鉄条網に突進し鉄条網を自分の生命と引き換えに爆破した事件があった。軍は「肉弾三勇士」として美談としたが、深刻な問題でもあった。ようは、生身の人間だけでは最前線での鉄条網破壊は困難な場合がある事で、鉄条網破壊のたびに工兵を爆死させてたら工兵が何人いても足りる筈がないし、士気にも多大に影響しただろう。「美談」にしたのはその士気を失わせないための措置とも思える。余談ながら、この工兵3人(3人とも一等兵)は日本陸軍初の2階級特進をしている(それまでの日本陸軍は平時戦時問わず2階級特進を認めていなかった)。
 開発は上海事変翌年の昭和8年から行われた。開発を行ったのは陸軍科学研究所第1部で、昭和13年に完成した。詳しくは後述するとして、ようはリモコン有線操作式のキャタピラ無人車両だった。正式名称は「97式小作業器」だけど、なんで完成が紀元2598年なのに98式にしなかったのだろうかは不明。なお、通称は「い号」。「い」というのは有線(当時の表記は「いうせん」だった。無論読みは「YUUSEN」)の略。この「い号」は甲型と乙型の2種類があった。甲型は自重200キロで鉄条網爆破筒を搭載していた。乙型は自重400キロで300キロの爆薬を積んでいた。この乙型の任務は鉄条網破壊ではなく、トーチカの破壊だった。無論、爆薬取り付け装置を積んでいた。両方合わせて約300両が生産された。
 さて、完成した昭和13年に大量配備が決定した。同時に、訓練が行われた。訓練要員は関東軍の各地から約150名の精鋭の将兵を選び運用研究を行ったものの、実験結果は芳しくなかった。電線がもつれたり、敵陣(無論訓練での敵陣)に走らせている時に振動で爆薬が転げ落ちたり、起伏地のど真ん中につっこみ腹がつっかえて走行不能になったりした。しかしながら、この「い号」を装備した独立工兵第27連隊が創設され配備された。当初は満州地方だったけど、昭和20年4月から内地に本土決戦部隊として招聘され終戦時には鹿島灘にいた。結論からいえば実戦に投入される事はついになかった。太平洋戦争前に部隊を編成しながら実戦を経験しなかった理由としてはいろいろあるけども。もはや第2次世界大戦は前大戦のような大規模な陣地戦にはなりえず、機動戦だったことと、有線操縦なので地形の影響をモロに受けた事もあるだろう。似たような兵器にドイツ軍の「ゴリアテ」があるけども、こちらはそれなりに使われていた。やはりこの手の兵器は太平洋戦線のジャングルや珊瑚礁などの起伏の激しい所ではなくユーロ平原などのだだっぴろい平地向けの兵器だったからと言える。
 なお、正式名は「97式小作業"器"」だけど、現地部隊では「97式小作業"機"」と称していた。なお、車両なのに「車」という名称がつかなかった理由として、縄張り(ようは「車」がつくと工兵ではなく歩兵の管轄だ!という理屈)を意識したためといわれる。


 形状・用途はドイツ軍のゴリアテに似ている。決定的に違ったのはゴリアテは自分自身が爆発するいわゆる使い捨てだったけども「い号」は車体の上に爆薬を載せてその爆薬のみを敵陣に置き去りにする兵器だった。ようは使い捨てではないんだけども、貧しかった日本だからこそとも言える。ただ、ゴリアテは走行装置を爆発装置があればことたりたけども、「い号」は「爆薬を置く」という動作が必要だったので、その分の駆動系も操縦が必要だったので、多少なりとも複雑な兵器だったと思われる。残念ながらそこいらの詳しい資料がない(;_;)。この辺の動作問題が原因で実戦に使われなかったとも考えられなくはないけども、これは私の想像でしかない。


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