97式中戦車(チハ)
全長:        5.52m
車体長:       5.52m
全幅:        2.33m
全高:        2.23m
重量:  15.8t(全備重量)
装甲:     20〜25mm
乗員数:        4名

(データは97式中戦車改
 のものです)
武装:47口径47mm砲×1
       100発搭載
    7.7mm機関銃×2
       4035発搭載
動力:SA12200VD
    170馬力ディーゼル
    V型空冷12気筒
走行性能:最大速度:38km/h
       航続距離:210km
総生産台数:2123両
    ("改"含む総数)
 97式中戦車はそれまでの日本の主力戦車である89式中戦車の後継である。
 昭和11年7月22日に第14回軍需審議会が開かれた。その中で新型中戦車に関する項目が討論された。

戦車部隊側の主張では
・重量は89式中戦車と同じ14t程度
・新型の57mm砲(長砲身なのかは不明)
・車載機関銃×2
・装甲は近距離で37mm対戦車砲に耐えられる事
・路上速度は35km/h以上。路外では12km/h以上。
・乗員は4名(車長と運転手と砲手と機関銃手)

を主張した。
しかし参謀本部と陸軍省の提示案では
・重量は10t以下
・武装は従来の57mm砲と機関銃1丁(砲塔後ろの機関銃をなくす)
・装甲は37mm砲を中距離(具体的な距離は不明)で防御できる程度
・速度は路上で30km/h。路外で12km/h
・乗員は3名(車長と運転手と機関銃手。砲手は車長が兼ねる)

と主張していた。ようは、戦車部隊側(使用者側)は重装甲・重馬力な戦車を要求したのに対して、参謀本部・陸軍省側の主張は安い戦車を大量に作ろうと考えていたのである。両方とも確かに的を得ていた意見ではあった。戦車使用者側の主張は無論、乗員の安全を考えた上である。自分の乗っている戦車の装甲が厚いならば、勇気百倍で果敢に突進もできるだろう。一方陸軍省側の考えは、当時の日本は戦争をやっている訳でもなく、ましてや軍事国家といえども予算は決まっていた。予算のかかる戦車をつくっていては定数揃えることなどできず、第一金のかかる戦車を作って定数揃える金などなかった。ようは、金の問題だったのだが、双方の主張が真っ向から違っている以上、また、根本的な問題(ようは金)が解決されない以上、両者が妥協される筈はなかった。そこで両者は試作車両を作って相手側に提示して許可を求める方針にした。陸軍省側は大阪の陸軍工廠で作らせたが、戦車部隊側はそうはいかず、民間の三菱重工東京製作所に製作を依頼し、双方とも翌年の昭和12年6月に完成した。戦車部隊側の試作車両は「チハ」車と命名され陸軍省側の試作車両は「チニ」車と命名された。「チ」は中戦車の頭文字。その次の文字は「イロハ・・・」の製作順番を指す。この試作車をもって両者側は真っ向から対立した。無論である。考えが根本的に違っている以上、試作車を作った所で考えが変わる筈がなかった。
 しかし、翌月に、この問題は一気に解決してしまった。
 昭和12年7月7日。盧溝橋事件発生。間を置かず日本政府は中国に3個師団の派遣を決定した。無論これは戦争を仕掛けたに等しい行為で、軍事予算の倍の臨時軍事費が宛がわれた。もう、根本的な問題(金の問題)は解決してしまったのである。無論戦車部隊側の戦車「チハ」が制式採用され、同時に「97式中戦車」と命名された。
 不幸な事に、97式中戦車の初陣はノモンハン事件だった。97式中戦車は安岡戦車団の戦車第3連隊に4両が配備され戦場に向かった。その第3連隊連隊長の吉丸大佐は最新鋭の97式中戦車に乗車していたものの、ソビエト軍の敷設したピアノ線障害(ピアノ線を地べたに敷設してキャタピラに絡ませた。なお、ピアノ線ではなくただの針金だとする説もある)に引っかかり身動きが取れなくなった。そこをソビエト軍の戦車や対戦車砲の猛砲撃を受け連隊長は戦死した。ただ、砲手が脱出に成功したのは救いか。結局は97式中戦車の損害はこの1両だけだったものの、後世まで「97式中戦車は弱い」というイメージを与えた意味では苦いデビュー戦であったといえる。結局は第3連隊の戦果は戦車撃破32両、10両捕獲。装甲車35両撃破、捕獲10両という記録がある。ただし、どこまでは97式中戦車の戦果なのかは不明である。この時の戦訓で戦車砲の対戦車能力の無さが問題となった。早速陸軍技術本部では47口径47mm砲を97式中戦車に搭載する事を計画し。昭和16年9月に仮制式が上申され、翌年の昭和17年4月に制式採用となった。これは普通は「97式中戦車改」と呼称される。
 話しはさかのぼって、昭和16年12月8日に日本は米英に対して宣戦布告を行い太平洋戦争に突入した。97式中戦車は無論、イギリス領のマレー半島とアメリカ領のフィリピンに上陸し進出した。マレー半島ではイギリス軍は「ジャングルに戦車は使えない」という考えから戦車が配備されておらず、さほどの苦戦はなかったもののフィリピンでは強敵に遭遇している。M3スチュアート戦車だった。97式中戦車よりも2t軽かったものの、最大装甲は前面44mmという1.7倍の厚さだった。97式中戦車の57mm砲は受け付けず、逆にM3スチュアートの37mm砲は97式中戦車の装甲を撃ちぬいた。時に昭和17年1月。戦車第7連隊連隊長の園田大佐はここにいたって、まだ制式採用のされていない47口径47mm砲搭載の97式中戦車改の実戦投入を強く要望した。捕獲したM3スチュアートに18口径57mm砲を射撃した試験では500mの距離でも貫通ができなかったからである。結局、三菱重工東京製作所で突貫作業で10両の97式中戦車に47口径47mm砲搭載砲塔を載せて(後述するけど、57mm砲搭載の砲塔と47mm砲搭載の砲塔は相当形が違っている。単純に57mm砲を47mm砲に乗せかえる作業ではなかった)、なんとか編成も行って臨時松岡中隊と命名されて昭和17年3月20日に宇品港を出港した。3月中にはフィリピンに到着したと思われる。4月2日に翌日の第2次バターン半島総攻撃を前にして同じくM3スチュアートを標的にして射撃試験を行った。結果は良好で1000mでM3スチュアートの前面装甲44mmを貫いた。話は逸れるけど、何年か前にプロ野球のドラフト会議の抽選で見事に当たりを引き当てて「よっしゃぁ!」と叫んだ監督がいたけど、戦車部隊側も同じような気持ちだったろう。無論、翌日の第2次バターン半島総攻撃には第一線で活躍をしているこの総攻撃には190門の大小の大砲が動員され、猛砲撃によって突破口を作り快速の戦車が隙間ができた前線を急進撃した。6日後の4月9日には全ての米比軍が降伏。10両の97式中戦車改は具体的にどのような活躍をしたかは分からないけども、十二分に活躍したのは想像に固くはない。
 しかし97式中戦車改の栄光はここまでだった。1941年10月の時点で、アメリカ軍はM4シャーマン中戦車の量産を行っており、単純にフィリピンに配備されてないだけであった。その後の戦闘は改を含む97式中戦車は75mm砲搭載、前面装甲60mm以上というM3スチュアートよりもケタ違いの戦車を相手にしなければならず、非常に苦しい戦いを強いられた。M4シャーマンは1000m離れて射撃しても正面から97式中戦車を撃破できたけど、97式中戦車改は400mの距離でしかも側面を狙わないと撃破できなかった。日本軍戦車隊は、その事は充分承知していたため戦車の弱点(砲口やペリスコープやキャタピラなど)をまさに狙撃して対抗していたけども、所詮はM4シャーマンにはかなわなかった。
昭和19年6月末のサイパン島の戦車第9連隊は同島に上陸していたアメリカ軍に夜襲突撃を敢行したが、M4シャーマンやバズーカのために全滅した。被弾炎上した97式中戦車改は周囲の戦車を照らしだして、格好の目標をつくりだしていたという。なお、このサイパン島の戦闘が太平洋戦争での最大の戦車戦であった。サイパン島に限らずこの97式中戦車を配備していた島々では随所で突撃を行い、そして撃破されていった。ビアク・テニアン・ペリリュー・ルソン・・・。無論、日本の領土である硫黄島や沖縄も例外ではなかった。昭和20年2月から3月にかけて硫黄島に配備されていた戦車第26連隊は勇敢にも機動反撃を試みたものの歩兵のバズーカによって壊滅。残った97式中戦車はダックイン(穴を掘って車体を入れて砲塔のみ突き出して防御する戦法)してアメリカ軍を迎え撃ったものの、結局は撃破され、部隊は全滅した。また、昭和20年8月19日、終戦から4日後に占守島(千島列島の一番北の島)に配備されていた97式中戦車改は停戦を無視して侵略してきたソビエト軍に勇敢に反撃し、3日ほどの戦闘で戦死者約3000人という大損害を与えている(むろん97式中戦車のみの戦果ではないけど)。しかし、装甲が薄いので撃破された車両も多かった。このように97式中戦車は太平洋戦争の、日本の栄光と没落を余すところなく全てを見届けた戦車であった。


 97式中戦車は外見での最大の特徴は、正面から見たら砲塔が左に寄っているという点で、何らかの理由があると思われるけども、なぜなのかは分からないです(;_;)。なのに、後ろの機関銃は車体中心に配置されてるんですよね(^_^;)。なんでかなぁ?
 97式中戦車はボルト止め装甲を採用していたけども、ボルト止めは被弾した時にボルトの頭が車内に飛び散って乗員を殺傷してしまう事があった。また、「ブリキの装甲」などと揶揄されているほど装甲が弱かった97式中戦車であるが、実際には最高級の固い鉄が使用されていた。作家の司馬遼太郎氏は戦争中は戦車兵だったけども、彼が戦車兵教育の際に、教官から「砲塔を削ってみろ」と言われてヤスリを手渡されてヤスリを動かしても全く削れなかったという話もある。しかし固い装甲は逆にアダとなった。15センチ榴弾の至近弾を受けたら装甲板が瓦のように割れたという。ようは、固い装甲は曲がりにくいので割れやすいのである。装甲板を固くしたい理由は言わずとしれた事だけど、実験を行ううちに、戦車の装甲は徹甲弾を受け止められるような柔らかい装甲が使われ出したのである。97式中戦車は傾斜装甲を採用し、ボルトの先端まで尖らせて被弾に対処していたけども、思わぬところで欠点が露出したといえる。
「97式中戦車は世界最強の戦車である」。と完成当時の陸軍では豪語していた。無論嘘だけど全くの嘘ともいえない。完成当時(昭和13年)頃の世界の戦車と比較しても装甲厚はたしかに世界での最高レベルであった。特にノモンハンで対峙したBT-7戦車の装甲と比較しても、厚みでは97式中戦車の方が厚かった。ただ、主砲の対戦車能力で差がついたのであった。
 97式中戦車は、上でも述べたけども、対戦車能力向上のために長砲身の47mm砲を搭載したタイプが97式中戦車改として作られているけど、これは単純に57mm砲を47mmに変えたのではなく、砲塔を新設計している。砲塔をかなり大きくして、後方が出っ張っている。なんとなく、他国の戦車のような形態に近づいたともいえる。そのため、全備重量が97式中戦車では15tだったのがこの97式中戦車改では15.8tとやや重くなっている。
 ともあれ、日本陸軍を代表する戦車に違いなく、日本陸軍を写した写真の戦車は大抵がこの97式中戦車である。


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