全長: ?.??m 車体長: 5.00m 全幅: 2.30m 全高: ?.??m 重量: 16t(全備重量) 装甲: 6〜25mm 乗員数: 5名 |
武装:火炎放射器×5 機関銃×1 動力:145馬力ディーゼル機関 空冷直列6気筒 走行性能:最大速度:37km/h 総生産台数:118両 このデータは戊種のものです |
|
工兵はどこの国の軍隊でもエリートが集う。工兵は危険な任務が多い。別に敵弾の下で地雷処理とか爆破処理とかだけではなく、危険な地雷処理などもあるし、任務上、危険な爆薬をよく使うため熟練した者でないと勤まらなかった。そんな工兵でも所詮は人間。銃撃には弱いし、重量物が持てなかった。 この装甲作業器は工兵機材研究をしていた技本第2部(陸軍技術本部第2部)で開発が始まった。製作は三菱重工業で行われ昭和6年7月に試作車両が完成した。この試作車両は以下の8つの工兵作業が(戦場で部品交換が必要だけど)できるようになっていた。 ・地雷処理 ・地雷敷設 ・煙幕開帳 ・毒ガス散布 ・毒ガス除去 ・トーチカなどの障害物破壊 ・火炎放射 ・塹壕の採掘 ・クレーンによる重量物の持ち上げ 普通の国なら、工兵用車両にここまでの機能を要求はしない。たとえば、火炎放射が目的ならばそれだけの機能を装備した戦車が各国で作られているし、だいたい障害物破壊など前線で作業する工作車両と塹壕採掘や地雷敷設などの後方で作業する工作車両はおのずと構造が異なってくる。ここまで要求したのは当時の日本が貧乏国家だったからに他ならない。 最初に製作された13両は大半が陸軍工兵学校に送られて研究目的で使われた。昭和12年になって日中戦争が勃発するとにわかに必要性が増したのかいろいろ改良されるようになった。同年には8両の乙型が作られた。昭和19年まで改良が行われて、この年までに丙型1両、丁型20両、戊型77両が生産されている。これらの種類の詳細は後述したい。 話はさかのぼって、配備されたのが確認できるのが昭和9年で、この時は満州の独立混成第1旅団の独立工兵第1中隊に甲型が4両配備されている。昭和14年にはこの装甲作業器のみで、独立工兵第5連隊が編成されている。ただし、昭和17年9月には解散させて、戦車部隊に配置転換が行われた。ただ、この装甲作業器は各戦車部隊に分散されて運用されたものの、戦車部隊からの評判は良くなかった。元々が工兵用の車両なので、長距離機動の耐久力がなく落伍していたし、クレーン能力もあまり重い物を持ち上げられず、現地での戦車修理用にも使えなかった。また、地雷を除去する能力も壕を掘る能力も不足していた。ようはこの7つ道具車両はいずれも中途半端な性能だったのである。しかも機能が多い分搭乗員の苦労も結構なものだった。実際、狭い車内で全ての操作を迅速に行う事ができなかった。 そのためか、最終生産型の戊型では、架橋・火炎放射・爆薬設置・地雷除去のみに機能が限定されるように作られている。ある程度は実用性が高くはなったけど、それでも多目的に作られているとは思う。やはり当時の貧乏国家日本にはこのような方法しかなかったのだろう。とはいえ、この装甲作業器のノウハウから専用のクレーン車や爆薬車などが誕生しているから、その試金石になったとも言えるだろう。 なお、正式名称は「装甲作業"器"」だけど現地部隊では「装甲作業"機"」と称していた。「車」と名前をつけなかった理由としては車両は工兵兵器ではないという縄張り意識があったからとされる。○○式と付けられなかった理由は不明だが、この作業器は工兵の使用するシャベルやツルハシと同様に工兵の備品と考えられていたからだろうか? 以下は、各型の詳細説明をしたい。 ・甲型: 最初の生産型。13両が生産されている。機能は上記を8種類が行えた ・乙型: 甲型を改良した車両。8両が生産された。改良内容は不明 ・丙型: さらに改良を加えた車両とされる。詳細は不明。1両しか生産されていない事を考えると、失敗作であったかもしれない ・丁型: 塹壕通過用に折りたたみ式の橋を搭載している。この橋は折りたたみ式で「く」の字式になっている。また、この丁型から、毒ガス散布・除去、煙幕開帳機能が無くなったと思われる。20両が生産された ・戊型: 上記丁型の橋を折りたたみ式から一体型になった。「く」の字式の折りたたみ橋は設置の際にどうしても上にいくので目立ちやすく標的になりやすいので一体型にしたのだろう。ただ、一体型はあまり長くできないのが欠点といえば欠点だった。橋の長さは7mで射出はカタパルト式で動力は火薬だった。この型は大きい火炎放射器が3つ小さいのが2つの計5つ付いていた。いったい何でこんなにたくさん積んだんだろう?生産数は77両。 余談ながら、昔の少年雑誌に「7つ道具戦車」として紹介されてもいた。 |