BT戦車

全長:        5.66m
車体長:       5.66m
全幅:        2.29m
全高:        2.42m
重量:         13.8t
装甲:      6〜22mm
乗員数:        3名
武装:46口径45mm砲×1
    7.62mm機関銃×1
動力:V12-M-17T
    450馬力ガソリン機関
走行性能:最大速度:50km/h
      (装輪時72km/h)
       航続距離:???km
総生産台数:10000両前後
(上記データはBT-7のものです)
 第一次大戦は「戦車」というジャンルの兵器を誕生させた。”いかに塹壕を突破するか?”との答えの1つが戦車だった。そのため、当時の戦車は、塹壕を超えられる事、機関銃の弾を防げる事、が最優先だったため、速度が極端に遅かった。10km/h以上出せる戦車はまれだった。もっとも歩兵の支援という事を考えればそれでも十分だった。なぜなら8km/hでも歩兵はついてこれないからだった。しかし、速度の遅さは戦場では欠点でもあった。トロいので、迎撃側の砲兵は落ち着いて狙えば高い確率で直撃弾をお見舞いできた。当時の戦車は銃弾の防御しか考えていなかったので、砲撃で簡単に撃破されてしまっていた。そこで、速度が速い快速戦車が第一次大戦後に開発されつつあった。ただ、厭戦ムードの戦後の事なので、軍事予算があまり下りず、開発は細々としたものだった。そんな中、アメリカのジョン・ウォルター・クリスティーは民間人でありながら、高速な戦車に魅せられたのか、自費で戦車を開発し、積極的に自国アメリカ軍に売り込みを図った。彼がなぜ自費で戦車を作ったのか?ソロバンを弾いた結果なのかはわからない。単純に「戦車が好きだった」とも思える。さて、クリスティーの戦車は当時にしては誠に先進的で、踏み込んでいえば先進的すぎた。当時の保守的なアメリカ軍には受け入れられる事はなかった。しかし、これに興味を示したのがイギリスとソビエトだった。特にソビエトは相当惚れこんだ。M1930クリスティー戦車を輸入すると早速コピー生産に入ったものの、試作車両が完成する前に制式化したのだった。これがBT戦車だった。
 BTとは”Bystrochodnij Tank”の略。訳せば「快速戦車」になる。BT-1から始まり、7までのバリエーションがある。詳細は下に譲るとして、BT戦車は当初は37mm砲を搭載していたけども、BT-3からは45mm砲となった。この46口径45mm砲は1000mで45mmまでの装甲を貫徹できた。45mmの装甲を持った戦車はこの当時はなく、まさに最強といえる戦車だった。外国の武官の観戦も許された1935年のキエフ大演習ではこのBT戦車の大部隊が故障もなく疾走し、諸外国武官の度肝を抜いた。
 BT戦車シリーズの特徴として、クリスティー戦車から受け継いだ機構の”キャタピラを外して転輪のみで走行できる”が受け継がれていた。初期のBT-1戦車では軽かったせいもあって、転輪走行で道路上最高速度110km/hという当時としては驚異的な速度で走行できた。、荒地でも63km/h出せたというから凄い。ただし、ソビエトの道路事情といえば、かなり悪く、少しの雨が降っても泥沼になるほどの劣悪な道路が多かったせいもあり、転輪走行で使われる事はほとんどなかったといわれている。また、キャタピラを外すのは想像できるほど大変で、だからといって、それほどのメリットがあるわけでもないという理由もあった。この理由などで、転輪走行はこの戦車以降は途絶えてしまった。
 初の実戦経験はスペイン内戦だった。この時に投入されたのはBT-5などだったけども、このBT-5は最大装甲が13mmと貧弱で、フランコ軍のドイツ製対戦車砲Pak36型37mm対戦車砲にやられてしまっていた。特に、対戦車ライフルでも撃ちぬかれていたため、装甲強化は急務だった。そして完成したのがBT-7で最大装甲が22mmで、避弾径始にすぐれた丸い砲塔を採用したこともあって、装甲は相当強化されたといえる。ただ37mm対戦車砲にはこれでも役不足だったが、これ以上の装甲強化はついになされなかった。BT(快足)戦車の意味がなくなってしまうからだと考えられる。
 BT戦車の最大の活躍の場はノモンハン事件の際で、この時に日本戦車相手に完膚なまで叩きのめした。この時の日本戦車の主力は89式戦車と95式軽戦車で搭載していた大砲は前者が18口径57mm砲で後者が37口径37mm砲だった。これなら22mmの装甲でも充分耐えられた。また、BT戦車が搭載する46口径45mm砲は当時の日本戦車の全てを1000m以上の距離で撃ち抜けた。日本戦車も陰に隠れて接近戦に持ち込むなどの奮戦を見せるが、質量ともに日本が劣っており、結局は一方的にBT戦車が叩きのめした。ただ、1939年7月3日の戦闘では、以外な強敵に直面した。それは火炎瓶と94式速射砲だった。当時のBT戦車はガソリンエンジン搭載で、しかも、戦車戦術が戦車単体での行動が基本だったため、歩兵の接近を許してしまい、火炎瓶に討ち取られる事もあった。94式速射砲(正式名は九四式三十七粍砲)は日本の独自開発ながらドイツのPak36とほぼ同性能だった。そのため、BT戦車は大損害を被っている。ノモンハン事件後火炎瓶対策として、エンジンをディーゼルに換装したBT戦車も作られた。ただ、装甲強化はなされなかったものの、次作のT-34への課題となった。
 BT戦車の活躍もここまでで、1941年に始まった独ソ戦では、戦車戦術がドイツ軍が圧倒的に優れていたのと、装甲が薄いのが致命的となり、次々にドイツ軍に食われていった。ある意味、対日限定の強力快足戦車だったとも言える。


  BT戦車のバリエーション

 BT-1:
 BT戦車の初期型。7.62mm機関銃を2丁装備していた以外の詳細は不明。BT-2の原型だったと思われる

 BT-2:
 最初の量産型。1931年に完成した。初期の生産型ではBT-1と同じ機関銃×2の装備だったものの、すぐに37mm砲と機関銃1丁を搭載した型が作られた。

 BT-3:
 46口径45mm砲を搭載した型。これも詳細は不明

 BT-4:
 BT戦車に37mm砲砲塔と機関銃砲塔を載せた型。早い話が多砲塔戦車だった。何両が作られたかは分からないが、どこまで役だったかは不明

 BT-5:
 BT-3の装甲を強化した型で、BT-2の11tから11.5tと若干重くなった。ただ、最大装甲13mmではたかが知れていた。この型から本格的に量産され、1933年から2年間で1884両が生産されている。1935年のキエフ大演習で故障もなく疾走していた。また、この型はスペイン内戦で実戦投入され、対戦車砲の洗礼を受けた。BT-7が開発されたものの、ノモンハン事件ではBT-7と一緒に投入されて戦果を上げた。

 BT-7:
 BT-5の装甲強化型。最大装甲22mmと当時としては世界水準の厚さとなった。また、砲塔の再設計され曲面を多用し避弾径始の優れた砲塔となった。ノモンハンでも主力として投入され、日本軍戦車を蹴散らし、日本軍陣地に突進して大戦果を上げた。1941年の独ソ戦でも主力戦車ではあった。ただ、22mmの装甲はドイツ戦車相手には役不足であり、戦車戦術の稚拙さもあり、容易に撃破されてしまった。総生産数は4727両と1941年当時のドイツ戦車保有数よりも多く、効果的な運用がなされていたら、あるいは、ベルリン占領が何年か早くなされていたかもしれない。

 BT-7A:
 BT-7の大砲を76.2mmに変えて、歩兵支援用にした型。154両が生産された。ノモンハン事件でも実戦投入されている。

 BT-7M:
 BT-7のエンジンをディーゼルエンジンにした型。1939年から生産が開始され1941年までに706両が生産された。


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