KV-1重戦車
全長:        6.80m
車体長:       6.80m
全幅:        3.32m
全高:        2.71m
重量:         47.1t
装甲:     最大75mm
乗員数:        5名

左写真はいうまでもなく
WTMのやつです(^^;)
武装:30.5口径76.2mm砲×1
   (111発搭載)
    7.62mm機関銃×1
動力:V-2-K液冷
    550馬力ディーゼル
走行性能:最大速度:35km/h
       航続距離:150km
総生産台数:約4300両
(上記データはKV-1のものです)
 KV-1重戦車はT-35重戦車の後継として開発された。T-35重戦車の詳細ば別項に譲るとして、T-35重戦車は典型的な多砲塔戦車だった。このT-35重戦車の後継として、SMKやT-100といった重戦車が設計されたものの、基本的に多砲塔戦車に変わりはなかった。多砲塔の宿命か、大きさのワリに装甲が薄かった。また、多砲塔では互いの砲塔が射線をジャマするので、死角も多かった。基本的にこのSMKもT-100も同様で、解決する事はできなかった。ただ、実戦の洗礼を受けるのはまだまだ後の事だったが、先を見越していた人物がいた。キーロフスキー工場のコーチン設計局長は、多砲塔戦車の限界を見抜き、単一砲塔で、装甲を強化する戦車の設計を指示した。1939年9月に試作車両が完成し、1939年末に生産が開始された。名前は、当時の国防省トップのクリメント・ヴォロシロフ元帥にちなんで「KV-1」と命名された。KV-1重戦車は30.5口径76.2mm砲搭載でこれはT-34戦車と同一だったものの、対戦車用としては十分以上だった。また、装甲も最大75mmとフランス戦でドイツ軍を悩ますマチルダ2戦車とほぼ同一で、当時としては重装甲の部類に入った。初陣はフィンランド戦だったと考えれるが、戦果などは不明。ただし、兄弟戦車のKV-2重戦車はマネンハイム線突破に大きな功績を残した。
 1941年6月22日。ドイツは300万人という空前絶後の兵力を投入して(後にも先にもこれほどの戦力を投入した作戦は他にはない)突如としてソビエト領内になだれ込んだ。奇襲にソビエト軍は困憊し各地で包囲撃滅されていったものの、戦場に姿をあらわしたKV-1重戦車はまさに無敵の活躍だった。なにせ、ドイツ戦車の砲弾は全て弾き返し、KV-1重戦車の砲弾は簡単にドイツ戦車を撃破できたのだから、T-34戦車の比ではなかった。なにせ10mの距離でも真正面ならドイツ戦車は貫通不可能だから話にならない。ただし、ソビエト軍の戦車戦術の稚拙さやドイツ軍誇る88mm高射砲の活躍でせっかくのKV-1重戦車も次々に食われていった。特に88mm高射砲にはKV-1重戦車の誇る装甲でも防げなかったので、追加装甲がなされていったものの、逆に機動性が低下した。ただ、KV-1重戦車がドイツ軍戦車に死神のごとく恐れられたのは事実だった。ドイツ側がティーガー1重戦車を投入しだすと、KV-1重戦車の優位も危うくなってきており、特にこのティーガー1重戦車相手には76.2mm砲では役不足だった。そこで85mm砲搭載のKV-85重戦車を生産するものの、この頃にはすでに新しい重戦車(JS重戦車)の生産が決定しており、「つなぎ」としての意味合いが強かった。ドイツ軍もパンター戦車を戦場に投入し、味方ソビエト軍もT-34/85を投入するとKV-1重戦車の価値もなくなっていった。ドイツ軍に恐れられたわりには後々の評判がイマイチなのはその点に理由があるのだろうか?

 KV-1重戦車の武勇伝は伝説と化していろいろな話が残っているけども、一番有名で大戦果だったのは1941年6月23日のドイツ第6装甲師団との戦いだった。
 1941年6月23日。ドイツ北方軍集団に所属していた第6装甲師団はロジエニエという町を占領し、そこを拠点にその町のの北にあるドヴィナ川を渡り、橋頭堡を得る事に成功した。しかし、どさくさにまぎれてこの中間の道路にたった1両でKV-1重戦車が進出し、道路をふさぎ、橋頭堡の部隊と師団司令部を分断した。橋頭堡に補給物資を運ぶトラックもすべてこのたった1両のKV-1重戦車に全て(12両)が撃破され補給が不可能になった。このままではいけない。ドイツ軍は早速破壊にかかった。たった1両であるとさほど気にもしなかったのだろう。最初は新型の50mm対戦車砲で片付けようとした。8発命中させたものの、貫通はゼロ。その間にKV-1重戦車はその対戦車砲列を正確に砲撃し、対戦車砲を全て破壊してしまった。今度は師団防空ご自慢の88mm対空砲で破壊しようとした。破壊されたトラックを盾に対空砲を設置していたが、設置が終わった直後にその努力をあざ笑うかのように、砲撃してこれを撃破してしまった。結局夜間になり、夜襲で片付けようとして、工兵に志願者を募った。工兵200名は全員志願し、さすがに200名いっぺんに向かわせるわけにもいかないので、精鋭12名を選抜して爆薬持参で撃破を試みた。結局見つかってしまい、激しい銃撃の妨害でキャタピラに傷をつけたに過ぎなかった。ただ、勇敢な1名がそれでも肉薄し、キャタピラを破壊し、大砲を傷つけた。ただ、撃破はならなかった。結局破壊不能のまま朝になり、動けなくなった目標なので、Ju87急降下爆撃機で破壊するという手段もあったものの、開戦初期で、物資集積所破壊と飛行場破壊などで忙しいく、急降下爆撃機の出動はできなかった。結局第6装甲師団がとった手段は、手持ちの3号戦車と4号戦車で攻撃を仕掛けて、そのどさくさにまぎれて88mm対空砲を設置して攻撃するというものだった。この作戦は成功し、設置された88mm対空砲はKV-1重戦車を正確に狙い撃ちした。合計7発を命中させ、さすがのKV-1重戦車の動きも止まった。ドイツ兵が接近して検分すると、驚いた事に、命中させた88mm砲は7発中2発しか貫通しておらず、50mm砲弾8発はただ、へこみができただけだった。3号戦車や4号戦車が命中させた37mm砲弾や短砲身75mm砲弾にいたってはその跡形すらなかった。しかも、検分中に砲塔が動き出した。つまり、まだ乗員は生き残っていたのだった。ドイツ兵は一目散に逃げ去ったものの、勇敢な1名が後退せず、貫通穴から手榴弾を投げ込んだ。鈍い爆発音がして、そのKV-1重戦車は永久に動かなくなった。たった1両のKV-1重戦車が1個機甲師団の動きを2日も止めたのである(これはKV-2自走砲だとする資料もある)。戦略的には運用方法のまずさから「トゲ」程度の威力しかなかったものの、戦術的の価値は計り知れないものがあった。
 KV-1重戦車が、もし、効果的な運用がなされていたならば、ドイツ軍の進撃はもっと早く食い止められて、今の我々の知っている世界史も微妙に違っていたかもしれない。

  KV-1重戦車のバリエーション

 KV-1:
 最初の量産型。1939年12月より生産が開始された。フィンランドとの戦争「冬戦争」にも参加した。ただ、当時は戦車戦術がソビエト軍には確立されておらず、フィンランド軍の肉薄攻撃でやられるKV-1も少なからずあった。KV-1単体の理由として、機関銃が砲塔の後ろにしかなく、ようは車体前方に自由に射撃できる機関銃がなかった。そのために、歩兵の接近を許したものと考えられる。ピストルポートはあったものの、気休め程度だったと考えられる。

 KV-1A:
 正式にはKV-1 1940/41年生産型。「A」とか「B」とかはドイツ軍での呼称である。以下も同じ。
 KV-1AはKV-1の主砲を長砲身に変えて(口径は不明)、車体前方に機関銃を装備した。独ソ戦初期でドイツ軍を悩ませたのもこの機種だった。

 KV-1B:
 KV-1Aの装甲強化型。ただ、再設計したわけではなく、既存のKV-1Aに追加装甲をボルト止めしたものだった。これで、最大装甲が110mmになったものの、当然ながら、機動力はそれに比例して落ちた。ただ、期待通りの防御力向上はえられなかったという。ボルト止めなので被弾の衝撃で外れたのかもしれない。

 KV-1C:
 KV-1Aの装甲と火力を強化した型。主砲を41.5口径76.2mm砲に変え、いかなるドイツ戦車をも1000m以上で撃破できた。装甲もKV-1Bの戦訓を踏まえて、始めから、砲塔と車体を重装甲にし、最大110mm、車体側面でも90mm(砲塔後ろは40mm。機関銃を装備していた理由もある)という当時としては破格の重装甲だった。ドイツの誇る88mm高射砲でも撃破が難しかった。生産途中から、砲塔が鋳造に変わり、また、重装甲で最高速度が30km/hを下回ったせいか後期型からエンジンが600馬力にパワーアップさせている。

 KV-1S:
 KV-1Cの最大装甲を85mmに落として、代わりに機動性を上げた型。最高速度が40.2km/hになり、T-34戦車に追従して作戦が行えるようになった。ただ、重戦車としての価値はなくなってしまった。

 KV-85:
 KV-1重戦車の最終型。KV-1Sの車体に51.5口径85mm砲搭載の砲塔を載せた。ただ、この当時はすでに新型重戦車(JS重戦車)の生産が決定しており、この生産が遅れたために、繋ぎとしての生産だった。実際、砲塔はJS-1用に開発されたものだった。車体自体もKV-1Sと変わった点は、前方機関銃がなくなったという点で、このために乗員が5名から4名に減らされた。なぜ前方機銃を廃止たのかの理由はよくわからない。つなぎ戦車のためか生産時期も1943年9月から10月までで、生産数も130両しかなかった。

 KV-2:
 KV-1AかKB-1Bの車体に20口径152mm砲を搭載した回転砲塔を乗せたタイプ。歩兵支援用に開発された。回転砲塔に152mm砲というどでかい大砲を積んだために、砲塔が異様に高くなり全高が3.98mにも達した。また、砲塔は前面100mmの重装甲のため総重量は52tにもなった。そのため、最大速度も25.7km/hほどしか出なかった。砲塔だけでも12tもあった。タチ悪いことにこの12t砲塔は手動旋回式で、砲手の苦労も並大抵ではなかった。砲弾重量も40kgもあったため、装填手も同様に苦労の連続だった。ただ、152mm砲の威力は強力で、対フィンランド線のマネンハイム防衛線突破に戦功があった。そのデカさはソビエト軍兵士から「ドレッドノード(ド級艦)」と言われたぐらいに頼もしい存在だったけども、ただ、4mもある全高はさすがに用兵上問題で、機動性も問題となった。ただ、ある意味この経験が、25日で試作車両を完成させたSU-152の開発に大きく役立ったとも思える。KV-1Aの車体を利用した型がKV-2AでKV-1BがKV-2Bと呼ばれている。砲塔もこの2種類では形状が異なっているので(KV-2Aは六角形砲塔で、KV-2Bは四角砲塔)、識別は容易にできる。


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