SU-85自走砲

全長:        8.13m
車体長:       ?.??m
全幅:        3.00m
全高:        2.45m
重量:         29.2t
装甲:      最大45mm
乗員数:        4名
武装:54.6口径85mm砲×1
    (搭載数48発)
動力:500馬力ディーゼル
走行性能:最大速度:50km/h
       航続距離:400km
総生産台数:????両
(上記データはSU-85のものです)
 第二次大戦に大量に使われたのに、その後に急速に廃れた兵器はいくつかある。たとえば護衛空母。小型の空母で、名前のように船団護衛用の対潜攻撃機や防空戦闘機を積んで任務を遂行した。その威力は絶大でUボートの活躍が大戦末期にほとんどが完封されたのはひとえに護衛空母の存在があった。ただ、戦後の航空機大型化に対応ができず、護衛空母は急速に廃れ、そしてなくなった。軽空母がわずかにヘリ空母として生き残っているに過ぎない。
 空を見れば、爆撃機がある。軍事に疎い人でも多くの人が知っている”B-29爆撃機”は日本本土を文字通りの灰燼と化した恐るべき兵器だった。空の花は戦闘機乗りだろうし、格闘戦で敵機を撃墜するのはたしかに華だが、戦争遂行能力を裂くのは爆撃機なしには有り得なかった。

「戦闘機乗りは英雄になり、爆撃機乗りは歴史になる」

と訓示した爆撃部隊指揮官がいたが、単なるハッパではなく事実でもあるだろう。ただ、戦後になって、核弾頭ミサイルの実用化と、これが決定的な要素だけど、攻撃機の大型化と強力なエンジンを積んだため、昔の爆撃機なみの搭載量を誇るようになった事。エレクトロニクス技術の向上で、爆撃命中精度が格段に上がり絨毯爆撃する必要がなくなった。昔の爆撃機は専門の爆撃手がいたが、それもエレクトロニクスの向上で操縦・爆撃が1人で行なえるようになった。また、対空火器の急速的な進化で、大編隊を組んでの飛行が単純に自殺行為となった点や特に対空ミサイルの急激的な進化はどんなに高い高度で飛ぼうとも、どんなに速く飛ぼうとも撃墜を逃れるのは不可能になった点も大きいといえる。余談ながら、戦闘機・攻撃機の翼面積が高速を得るために戦後から小さくなる一方だったのに、また広くなりだしたのは対空ミサイル対策で、ようはミサイルは翼面積が狭いから運動性能が悪く、戦闘機・攻撃機はフレアを放出して急旋回して逃れるようにするためだった。
 陸上兵器もいくつかあるが、その中の1つに固定砲塔の対戦車自走砲がある。ただ、廃れたには廃れたなりの理由はある。固定砲塔の対戦車自走砲が大戦中に多用されたのは、生産が戦車よりは簡単で安く仕上がるからで、とにかく、1両でも大量に素早く戦場に送る必要がある総力戦ではそれは重要なことだといえた。あとの理由としては、対戦車ミサイルの発達がある。対戦車ミサイルは戦車砲弾にくらべればかなり割高だが発射装置が軽くすむという利点がある。高速な戦車砲を発射するにはその反動を吸収する必要があるので複雑な装置がいる。油圧の駐退器なんかがそれで、あと反動に耐えるために各部を強化しないといけないから、余計に重くなった。年々厚くなる戦車の装甲に対抗するには戦車砲も大きくするしかない。こんな重たい装置を対戦車自走砲に組み込むよりは対戦車ミサイルを積んだほうがいい・・・と考えるのは自然の成り行きだった。

 1942年の東部戦線での戦況はドイツ軍優勢ではあったが、ソビエト軍も負けじとT-34戦車や、アメリカ・イギリスからタダで輸入した戦車を大量に投入していた。これらの戦車は一応はドイツ軍のものより優勢ではあったが、ドイツ軍も装甲強化や大砲の長砲身化などに取り組みその優位は崩れようとしていた。特に1942年末に登場したティーガー1重戦車には全くの無力でここに戦車アドバンテージは崩れた。
 ソビエト軍の対戦車自走砲にはSU-76というものがあった。オープントップで、防御力はないに等しく、搭載する76.2mm砲もティーガー1重戦車には全く無力だった。4号戦車などには辛うじて通用したものの、4号戦車も年々装甲は厚くなっており、また、これから出てくるであろう新型戦車には無力なのは目に見えていた。
 T-34戦車の76.2mm砲を85mm砲に変更して生産する計画はすでにスタートしていたものの、とにかく即座にティーガー1重戦車を撃破できる戦闘車両を欲した。ソビエト軍にはKS-12 54.6口径85mm砲という優秀な高射砲があり、これを戦車砲に改良したD5S対戦車砲がすでに完成していた。これをT-34戦車の車体に載せた固定砲塔の自走砲の製作を開始した。幸いにもSU-122という122mm榴弾砲を搭載していたT-34車体流用の固定砲塔自走砲が完成していたこともあり、設計はスムーズに行なわれた。
 1943年8月から生産が開始され、1944年中頃までに2329両が生産された。初陣は1943年末でドニエプル川付近の戦闘で登場したとドイツ軍の記録にあるとされるが、それが具体的にどこなのかはわからない。恐らく1943年11月のキエフ攻防戦だと思われるが実際の所はわからない。
 1944年になると待望の85mm砲搭載のT-34戦車(T-34/85)が完成したため、自走砲にはより大きな大砲を積む事が望ましくなった。同じ大砲積んでいるなら回転砲塔の方がいいに決まっているからで、SU-85はより大型の対戦車砲D-10S 56口径100mm砲を搭載するように改造された。この型はSU-100と呼ばれ、生産開始は1944年9月頃からで部隊配備は1944年12月から開始された。終戦の1945年までに約1600両が生産されたといわれている。このD-10S戦車砲は1000m以内であればティーガー2重戦車やヤークトディーガー駆逐戦車の正面装甲以外であれば1発で撃ちぬけた(理屈の上では)。1944年末になるとT-34/85戦車やJS-2重戦車やJSU-122対戦車自走砲などの超強力戦車兵器が量の面でも大量に配備されておりこの時点でドイツの命運は決まったと言っても過言ではないだろう。
 SU-100は戦後も生産が継続され、55口径100mm砲搭載のT-54戦車の生産が開始した事もあり1951年には生産は中止された。その後しばらくはワルシャワ条約機構軍で使われていたらしいが、やはり固定砲塔の対戦車兵器は使いにくくやがて装備から外される事となった。


  SU-85自走砲のバリエーション

 SU-85:
 詳しくは上の本文参照。配備先は軽・中自走砲連隊の対戦車大隊で、SU-76自走砲の後継兵器というわけでもなかったらしい。単純に自走砲としての運用のしやすさはオープントップ砲塔のSU-76自走砲が上だったということだろうか?2329両が生産された。

 SU-100:
 上の本文のようにSU-85自走砲に56口径100mm砲を搭載した型。純粋にSU-85自走砲の車体を流用したというわけではなく、戦車長用のキューポラが追加されている。そのため左側面以外から見ると識別はできる。ボアアップしたので砲弾搭載量が48発から34発に減った。これは1会戦程度の少ないものだったが、どうせソビエト軍は数を多く投入させるのだから問題はなかったのだろう。総生産台数は不明

 SU-85M:
 SU-100自走砲用の100mm戦車砲の供給が間に合わず、SU-100の車体に54.6口径85mm砲を搭載した型。とにかく1両でも多く戦闘車両を戦場に送り込みたかったソビエト軍の意気込みが伝わるような気がする。急造品なので総生産台数は315両とそう多くはなかった。


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