T-34戦車
全長:        8.15m
車体長:       5.90m
全幅:        3.00m
全高:        2.72m
重量:         32.0t
装甲:     18〜75mm
乗員数:        5名

左写真は灰塵KSRさんから提供していただきました。
ほんとありがとさんです≦(_ _)≧
武装:54.6口径
      85mm砲×1
    (56発搭載)
    7.62mm機関銃×1
動力:V-2-34水冷
    500馬力ディーゼル
走行性能:最大速度:55km/h
       航続距離:360km
総生産台数:40000両以上

(上記データはT-34/85 1944年型のものです)
 ソビエトでは別名「ロジーナ」とも呼ばれている。ロジーナとは英語でペトリオット・・・つまり「祖国」の意味がある。なぜこんな別名がつけられたかというと、祖国ソビエトを救った戦車だからであった。
 T-34は1937年に開発が開始された。この開発では開発名A-20というのとA-32という試作車両が完成した。A-20はBT-7の改良型と言えるものだったが、A-32は全く独自の試作戦車だった。このA-32は若いコーシキンという人が設計を行った。若いがゆえに古さにこだわらず全く飛躍的な設計をしていた。砲塔が前にでっぱっているので、カッコイイとは言いがたい。しかし、傾斜装甲の採用や世界に先駆けた長砲身(といっても30.5口径だけど)の76.2mm砲を搭載し、時速55キロで走れるというまさに、快速戦車と中戦車を合わせた、主力戦車といえるものだった。飛躍的な設計を強調したけども、足回りはBT戦車でも採用していたクリスティー式懸架装置を使っているなどの点もあるが、これは飛躍的だけども、いいものは古いものでもドンドン使おうというコンセプトだったのだろう。結局、A-32試作戦車が採用され、そのままT-32戦車と命名され採用された。1939年末から1940年春にかけてフィンランドとの戦い「冬戦争」で実戦投入され、防御力の不備が指摘された。早速改良され、本生産に入ったのがT-34戦車だった。
 初期型のT-34戦車は1940年9月から(6月とする資料もある)生産が開始された。俗にT-34/76Aと呼ばれる型だけども、実際にはT-34 1940年型が制式の名称。T-34/76Aというのはドイツ軍側での呼称でこれがそのまま戦後の西側諸国の通り名となった。わざわざT-34の後ろに/76としているのは主砲の違いで区分しているためで(後に85mm砲搭載のT-34戦車がでてきた)ソビエト軍内での呼称ではないが、ここでは分かりやすくするためにこのドイツ呼称で進める。
 1941年にはT-34/76B(1941年型)の生産が始まった。これは下で詳しく述べるけども、大きな違いは主砲の砲身の長さが長くなり、30.5口径から41.2口径になったため、その分威力も増した。この型は指揮官用として開発されたとも言われているが、実際の所はよくわからない。
 1941年というのはソビエトにとっては激動の年でもあった。1941年6月22日、ドイツ軍は突如としてソビエト軍に攻撃を開始し、瞬く間にスターリンライン(=ソビエト旧国境線)を突破しまさに破竹の勢いで首都モスクワに向かって侵攻していた。意表をつかれたソビエト軍に抵抗の手段もなく、また後退も禁じられ各個に包囲され撃滅されていった。自慢のドイツ装甲師団も1日に60キロも進撃した事もあり、ヒトラーでさえ疑った勢いだった。しかしそんな快進撃に立ちはだかったのがこのT-34戦車だった。攻撃力・防御力・機動力全てに優れていたこのT-34は局地的な戦いでは勝利を収めてもいた。敵陣15km後方にまで進撃した事もあった。なにせ、ドイツ軍の主力である3号戦車や4号戦車ではT-34戦車に対抗するには役不足で、避弾径始が優れていたためドイツ側の砲弾ははじかれてT-34戦車の砲弾は簡単に貫通されてしまうのだから話にならない。また、背もドイツ戦車と比べてT-34戦車の方が低かった。理由は、当時の戦車の多くがリアエンジン・フロントミッション型だった。ようはエンジンは後ろで駆動輪が前にあったのだけども、T-34戦車はBT戦車と同じくリアエンジン・リアミッション型だった。駆動輪が後ろにあるので、砲塔下にシャフトがこないので、その分車高を低くできたのだった。これは戦後しばらくしないと西側諸国では採用しなかった機構である。ただ、劣っていた部分もあった、それは戦車乗員の技量で、これがソビエト側が決定的に劣っていた。どんなに厚い装甲をもってしても、側面・後面は弱い。また、当時のT-34/76Aは無線が搭載されておらず戦車同士の連携が悪かった。乗員も4名で、砲手と戦車長が兼任だったので的確な指揮がとれなかった。その欠点があり、せっかくすぐれたT-34戦車をもってしてもドイツの快進撃を食い止める事はできなかった。とはいえ、ドイツ軍にとってT-34戦車は脅威以外の何物でもないには変わりがなく、開発中だった重戦車(後のティーガー1重戦車)の開発を急がせ、捕獲したT-34戦車を徹底的に解析し、新しい中戦車の開発に大きく取り込まれた。こうして出来たのが後にパンターと呼ばれる中戦車だった。「T-34をそのままコピー生産せよ」という意見もあったという。
 1941年10月。一休みしていたドイツ軍は一気にモスクワを攻略すべく、「ティフーン(台風)作戦」を発動。秋の長雨が早く終わり、例年よりもずっと早い冬将軍を迎えたロシアであったが、ここでも、T-34戦車の脅威は続いた。ドイツ軍戦車が行動不能な雪上でもT-34戦車は行動ができたからだった。理由として、T-34戦車の方がキャタピラを幅広くとっていたからだといわれる。たしかに事実であるが、実際にはドイツ戦車よりもT-34戦車の方が重く、1平方センチメートルあたりの重量比はさほど変わらない。本当の功績はエンジンにあった。3号戦車とT-34戦車を比較した場合、重量は1.25倍だけど、馬力は1.67倍もあった。ディーゼルエンジンなのに馬力が高かった理由として、いろいろな改良がほどこされていたことによっている。搭載されていたエンジンは元々はイタリアのフィアット社の航空機用エンジンだったけども、ソビエトの技術者のT.ツバチンとJ.ビックマンの2名が独自の改良を施した。今では当たり前の仕組みのDOHC(ダブル・オーバー・ヘッド・カム)方式を採用していた。つまり、バルブが吸気と排気が2個ずつあるため吸排気効率がよく、カムが上にあるので(当時は下にカムがついていてシャフトでバルブを開け閉めしていた)ここでのエネルギーロスも小さかった。また、ロシアの寒い寒い冬でもエンジン始動ができるように、特殊なディストリビューターが取り付けられていた。また、潤滑油や冷却水のタンクは無くなるギリギリまで持ちこたえるようにポンプの位置が最下点に取り付けられるなどの配慮もしていた。ある意味、T-34戦車の最大の功績はエンジンにあったとも言える。余談ながら、ディーゼルエンジンは燃費もいいので、T-34戦車の航続距離は450kmもあった(普通の他国の戦車は200k前後)。もっとも航続距離の長さは単に燃費がいいという理由だけでなく、燃料がガソリンではなく、軽油などの揮発性の低いものなので発火しにくいという特性がある燃料を使っていたため、外部燃料タンクをつけていたからという理由もある。外部燃料タンクは戦闘直前に外されるようになっていた。広大な領土をもつソビエトならではといえるけども、この戦車以降、外部燃料タンクはソビエト戦車の定番となった。
 T-34戦車は量産されてしかるべきだったものの、独ソ戦初期の1941年には1000両以下しか配備されておらず、また生産もあまりされなかった。生産の伸びが鈍っていた理由は、工場をウラル山脈の東に疎開させたのが理由で、これが独ソ戦初期の大敗北の原因の1つと考えられる。ともかく、この時期はアメリカ・イギリスの武器援助でなんとか乗り切った。また、1942年以降は生産も稼動し順調に進むようになった。1942年には生産を簡素化したT-34/76 1942年型の生産が始まった。ただ、配備はうまくいかず、1942年の夏にはドイツ軍はモスクワをあきらめ、コーカサス油田を狙ってきた。ここを立てばソビエト軍戦車はただの装甲板付き戦車砲にしかすぎなくなる。ウラル山脈東の戦車工場を爆撃するという手もあったが、当時のドイツには戦略爆撃機はなく、またあったとしても必要分作る工業力の余力などなかった。ある意味、ドイツ軍の限界がここに見えてきていたと言える。ともかく、ブラウ作戦(コーカサス攻勢)ではソビエト軍は押しまくられ、ヴォルガ川まで押されてしまった。とにかくT-34戦車を!とばかりに各工場では増産につぐ増産がなされ、東部戦線のターニングポイントとされる、スターリングラード戦でも、スターリングラードのトラクター工場ではT-34戦車が量産され、工場自体が戦場になるまで生産されていた。特にこことレニングラードなどでは完成した戦車はそのままドイツ軍に突進していったといわれており、塗装がなされていない戦車もあったという。スターリングラード戦ではほとんどがドイツ軍に占領されたものの、十分な数のT-34戦車を集めて、1942年11月に反撃を開始。スターリンググラードに突入していたドイツ第6軍33万人を逆に包囲し、この部隊を救出にきた部隊をも返り討ちにして、ソビエト軍はついにコーカサス攻勢を乗り切ったのだった。
 1942年中ごろから、ドイツ軍は56口径88mm砲搭載のティーガー1重戦車を東部戦線に投入した。これはソビエト側もショックを隠せず、急遽、対抗できる大砲である「ZIS-S53」54.6口径85mm砲搭載のT-34戦車を開発した。翌年には完成し、1943年12月から量産された。これはT-34/85 1943年型と呼ばれる。特徴は装甲が増して重量が32tになったのと、砲塔が3人乗りになり、つまり、戦車長は指揮に専念できるようになった。これはティーガー1重戦車に比べれば攻撃力・防御力共に劣ったものの、機動力は優れていた。また、1943年中ごろから姿をあらわした、パンター戦車と比較した場合、攻撃力・防御力・速度ともに劣ったものの、決定的な差ではなかった。だいいち、これらドイツ戦車は足回りが弱いという共通した弱点があり、あと数量もT-34/85の方が圧倒的に多かった。しかも、ドイツ軍は燃料が極端に不足していた。ドイツ戦車はガソリンエンジンなので、軽油が使えない。ガソリンは航空機に優先された事もあって、機動反撃ができず、燃料不足で動けなくなった戦車も多かった。動けない戦車など装甲板付き戦車砲につぎないからである。
 ソビエト軍はT-34/85戦車を先頭に次々とドイツ軍を押し戻し、1944年までには、ソビエト国内からの駆逐に成功。同年から1945年にかけては、東ヨーロッパ諸国を解放し、ついにベルリンの国会議事堂に赤旗を立てる事に成功した。これもT-34戦車の優れた性能と、優れた機動性と数の多さが大きく戦局に影響したからだった。 この優れたT-34/85戦車は戦後も生産が続行され、1950年代までは東ヨーロッパ諸国に配備されていた。ソビエト本国でも、T-55戦車が採用されても訓練用として使われていて、そのため即実戦投入が可能だったため、チェコスロバキアの民主化運動・・・いわゆるプラハの春の軍事介入時にもこのT-34/85戦車は投入されている。また、1983年のレバノン紛争ではPLO側が実戦投入し、最近ではユーゴ内戦でも姿をあらわした。好敵手M4シャーマン戦車が1970年代までの命だったことを考えればこれは驚異的とも言えよう。
 軍用だけでなく、かなりの数のT-34戦車が現存しているため、映画にも本物がよく登場している。ドイツ・アメリカ合作の映画「スターリングラード」(ハリウッド映画の方とは別物)でも登場しているし(なぜかスターリングラード戦時に出現していないT-34/85戦車が出ているがこれしかなかったのだろうか。余談ながら、この映画のT-34/85戦車はユーゴスラビア製を使っている)、「プライベート・ライアン」でもT-34/85戦車改造のティーガー1重戦車が出ていた。広範囲で活躍した戦車とも言える。


 T-34戦車のバリエーション

 T-34/76 1940年型:

 ドイツでの呼称がT-34/76Aだったためこっちが一般的に通っている名前である。T-34戦車の初期型で、主砲にはL-11 30.5口径76.2mm砲が搭載されていて、最大装甲厚は45mmだった。これは出現当時としては、まさに最強だった。ただ、4人乗り(操縦手・前方銃手・装填手・戦車長(兼砲手))なので、戦車長が独自にいたドイツと比べると後進性が指摘されるが、これはドイツ以外の多くの国がそういう編成だったので、欠点とは言えないかもしれない。1940年型は、鋳造製と溶接構造製があった。ただ、溶接組立型は手間がかかるので、後には鋳造一本になった。また、外部燃料タンクが車体後ろについていた。ディーゼル燃料(軽油)なので、発火しにくいからこそできた仕組みといえる。T-34/76では箱型だったけども、T-34/85からはドラム缶型になっている。箱型も、当時の写真を見る限りいくつかの大きさのバリエーションがあったらしい。詳細は不明。
余談ながら、「/76」という名称は後に85mm砲型T-34が登場した後でドイツ軍でつけられた名前で、当然ながら出現当時は使われてはいなかった。

 T-34/76 1941年型:

 1940年型の主砲をF-34 41.2口径76.2mm砲に変えた型。指揮官(小隊長など)戦車として生産されたという。そのためか、生産は1940年型と平行して行われていた。1940年型と1941年型合わせて1225両とさほど多くない数しか生産がされなかった。工場疎開と、工場自体がドイツ軍の手に落ちる前に破壊されたのが原因だろうか。これが、独ソ戦初期の苦戦を招いた一因とも言える。なおT-34/76Bとドイツ軍では呼ばれていた。

 T-34/76 1942年型:

 1941年型の構造を簡素化した型。溶接構造は、廃止し、すべて鋳造砲塔で作られるようになった。その他はどんな簡素化を行ったかはよく分からない。外見上では1941年型と大差がないからか、この型もドイツ軍ではT-34/76Bと呼ばれていた。12553両が生産された。余談ながら、ドイツでは単機種で1万両以上生産された戦車はなく、この点でも勝負あったという感もある。なお、この型から戦車の左右に手すりがつけられた。これは戦車に兵士を乗せて行動するためのもの。余談だが、戦車は単体では歩兵に近接戦闘でやられる事もあるので、歩兵を乗せるんだけども、その気持ちはわからなくもないけども、乗っている歩兵自体は装甲もなにもないので、銃撃で戦車が無事でも乗っている歩兵が全滅という自体もよくあった。

 T-34/76 1943年型:

 1942年型の砲塔を6角形にしたのが最大の特徴。そのため他のT-34/76と識別するのは容易である。ドイツ軍ではT-34/76Cと呼ばれていた。なお、1943年型というが、実戦投入は1942年の夏からだった。便宜上の呼称なのだろう。生産数は不明。これ以降は85mm砲搭載のT-34/85にバトンタッチすることになった。


 T-34/85 1943年型:

 1942年から出現していたティーガー1重戦車に対抗すべく、主砲が76.2mmから85mmにボアアップした型。当初はZIS-S53 54.6口径85mm砲を搭載する予定だったものの、開発が間に合わず、D-5T 51.5口径85mm砲を搭載していた。やや攻撃力に劣ったものの、側面を狙いさえすれば十分ティーガー1重戦車も撃破可能となった。あと、この型に限ったことではないけども、製造場所で、鋳造方法が異なっているのと、仕上げが荒い事もあって、鋳造ラインの形で製造場所もある程度特定ができた。1943年12月より生産開始。1944年3月に下記の1944年型が登場した事もあり、早い段階で生産が打ち切られた。
余談ながら、ソビエト軍内では「T-34-85」という名称が使われていたが、ドイツ軍内では「T-34/85」と表記されたため、後の西側諸国ではこの表記が使われるようになった。

 T-34/85 1944年型:

 1944年3月より生産開始。主砲が待望のZIS-S53 54.6口径85mm砲になった。この大砲は1000mの距離でも真正面からティーガー1重戦車を撃破できた。ティーガー1重戦車は垂直装甲だったので、これもT-34/85戦車にはプラスした。ただ、この時期になってくるとドイツ側もパンター戦車を投入してきた。この戦車と比べるとT-34/85戦車は走攻守全ての面で劣ってはいたものの、決定的な差ではなかった。だいいち戦場に送られた数はT-34/85戦車のほうが圧倒的に多かったし稼働率も高かった。パンター戦車は足回りの不備に泣かされていた。この頃になると、製造工場でもT-34戦車の生産に慣れてきたこともあって、1両の製造時間も初期の頃と比較しても半分以下になっていたという。同機種継続生産の利点がここにきて生かされたと言えるだろう。

 T-34/85 1945年型:

 1944年型と比較して外見が変わった点といえば、砲塔上のベンチレーター(換気部)が前後に1つずつになった(1944年型では後ろに給排気部2つ一緒についている)。この点以外はさほどの相違点はない。戦後も作られている。T-34/85は1943年型・1944年型・1945年型合わせて29430両が作られた。


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